鶏肋ダイジェスティブ

人生の心残りを消化して忘れるためのブログ

福島聡『バララッシュ』を読み返したこと

福島聡『バララッシュ』全3巻(エンターブレイン刊 ハルタコミックス)

f:id:Digestive:20210331212907j:image

記事を半年以上書きかけのまま放っておいたのだが、いい加減精神の整理をつけなくてはならないのでむりくりにでもひねり出すことにした。

3月前半に『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を見た後、本棚からこの漫画を引っ張り出して読み返していた。

なぜかこの漫画、「庵野秀明」を連想させる要素が妙に多い。
主人公の二人組の名前は、「山口」と「宇部」だ。庵野秀明山口県宇部市出身というのは、それこそ『シン・エヴァ』のラストで広く知られた通り。
最初に山口が宇部に見せるアニメは『風の谷のナウシカ』で、宇部が最初に興味を持つのは、庵野秀明作画の巨神兵のシーン。その後二人で封切りに見に行った映画は『王立宇宙軍』。そして山口が映画を作ろうとする際の引き合いには『エヴァンゲリオン』が出てくる。
宇部は、学生時代から天才的な作画力を持っていたアニメーターであり、特に爆発や煙といったエフェクトに異常な表現力を発揮する。だが、人間に興味がなく日常芝居を書けないという弱点があった。
山口は、自らのオリジナリティや作家性の無さを自覚しつつ演出家を志す。そして最終的には「虚構の申し子」として、”徹底的に過去のアニメからのサンプリングを行う”ことを武器にキャリアを築いていく。
この二人の特徴が、そのまま庵野秀明の作家性について向けられた言葉と同じであることは、庵野について多少知っているものであればすぐ気がつくことだろう。

f:id:Digestive:20211222000346j:image

*1

なんでこのように「庵野秀明」要素が盛り込まれているか。おそらくは、アニメ製作者としての作家性を描くにあたって何らかのモデルが必要になり、それに最もしっくりきたのが、作者の年代(69年生まれ)的に最も存在感があった庵野だということなのだろう。
だが、この漫画が連載されていたのは2017年から2019年。
エヴァ』空白の期間で『シン・ゴジラ』は大ヒット。もう庵野はアニメを作らないんじゃないかという漠然とした不安感の中でこの作品を読んでいたものだから、読んでて多少居心地が悪い思いがあったというのが当時の実感だ。
この作品にとってアニメとはなにか、という隠れた基盤として庵野秀明が据えられているのに、その存在が揺らいでいるのだから。

さて時は巡って2021年。『シン・エヴァンゲリオン』は無事(?)公開された。庵野秀明はこれ以上ない仕事ぶりであの拡大しきった世界をまとめ上げ、満足感と安心感を味わった中で僕はこの漫画を引っ張り出した。
これでこの漫画の面白さが変わったのかと言うとそんなことはないのだが、この漫画の終盤に漂う不思議な満足感は、より色彩を増していたように思う。
そんな感じでこの漫画を何回も読み直していたのだ。

f:id:Digestive:20211222001615j:image

*2

どんな漫画か

『バララッシュ』は、エンターブレイン刊『ハルタ』のVol.50~69、2017年12月から2019年11月にかけて連載された福島聡の漫画だ。*3
高校の同級生の山口奏と宇部了、二人がアニメ業界を志し、監督と作画監督としてアニメ映画を世に出すまでの話で、二人が17歳だった1987年から2017年までの話が描かれる。
生まれつき作画に関する天賦の才能を持つ宇部と、頭は回るがあくまで凡人である演出志望の山口。
1969年生まれの作者が目にしていた、(アニメが好きだとは同級生に言いづらい)当時のオタク事情や、アニメ制作の舞台裏の光景を見せながら主人公二人のストーリーは進んでいく。宮崎駿庵野秀明金田伊功といった(実在の)存在を意識しながら進んでいく姿は『アオイホノオ』のような作品に近い楽しさもあるし、仕事上の問題をどう解決するか、というお仕事物としてのパートもある。
1巻では学生時代、2巻では上京して就職したアニメスタジオ時代、3巻では山口が独立した演出家の時代として、それぞれ立場を変えながら、それでも精神の底で繋がっているような二人の関係性がこの話のキモで、最も美しい部分だ。

全3巻で、ちょうど映画一本を見るような感覚で見ることができる。まずこの舞台立てで興味を持った人は、こっから下の記事は別に読まなくてもいいので、漫画を読んでみてほしい。上の内容を踏まえた上で、本質的な面白さは研ぎ澄まされたネームにあるのだが、それを伝えるのはあまりに難しいので。

f:id:Digestive:20211129233659j:image
*4


漫画オタクの意地の悪い見方が出てしまっているような話だが、正直に言って、1巻が出た時には「だいぶ受けを狙いに来たな」と思ったものだ。
福島聡といえば、おおむね「短編の人」「SFの人」「実験的な設定を書く人」というイメージがあった。だが、この作品はその例に入らず、かつてのアニメ業界を舞台にした青春ストーリーという商業的にわかりやすいフックがある。
オネアミスの翼』の封切り、1987年がTVアニメ冬の時代だったこと、いのまたむつみの評価といった当時のアニメに関わる状況だけでなく、『私をスキーに連れてって』の説明など、作者の記憶をもとに、当時の文化史的なものを伝える意気込みが見て取れる。それはまさに『アオイホノオ』のような受け取られ方を意識したものだったに違いない。
ただその後、作者はそこに重きを置いていない、あるいは置けなかった。

2巻からはそういった描写ははっきりと薄れ、天才アニメ監督、不破明が大きく話を引っ掻き回していくことになる。当時のアニメ業界のトレンドなどを描くことはなく、また各話の終わりも、次回へのヒキを意識したような締め方になっていく。2巻を最初に買って読んだ時、その微妙な演出の違和感が気になり、今後の展開には不安があった。

そして3巻が出た時、帯には「完結」と書かれていた。
多少残念な気持ちと、まあ仕方ないよなという気持ちが入り混じった中で読んだ3巻は、なんだかやけに面白かった(こんな記事をあとで書くくらいに)。
おそらく連載終了の方針が出てきたであろう16話~17話以降。山口が独り立ちをして地道にキャリアを重ねていくくだりは、小気味よく数年単位で時間が飛びつつ話が展開していく。
ひとまずやることが決まれば、あとは仕事をしているだけで数年単位で時間が飛んでいく。それでも心の片隅では、学生時代からの友人のことを気にしている。そんな社会人的なリアリティとセンチメンタリズムが、素直に心に入ってきた。
最終回が葬式というのもいい。仕事に追われている社会人が普段会わない人間に会う機会なんて、冠婚葬祭しかないのだ。そして再会した山口と宇部との幸福なラストまでの流れは、何度でも読み返してしまう最高の終わり方だ。

結局のところ、ただただ日々やるべき仕事をし、作品を作り続ける。
それが、自分と世界がつながる唯一の方法でしかないのだということを、この作品は言ってくれているのかもしれない。
それこそ庵野秀明がびっくりするような正攻法で『シン・エヴァンゲリオン』をまとめ上げたように。

f:id:Digestive:20211228012408j:image

*5
余談。この漫画に実際のアニメ監督は名前のみの登場でビジュアルが描かれることはないが、最終回の葬式のくだりで、実在の人物らしき顔が1コマだけ描かれている。おそらくは左から、押井守宮崎駿大塚康生富野由悠季。2018年の高畑勲の葬儀から、この最終回の描写を構想したのかもしれない。

で、実際の所、私の心に鶏肋として引っかかり続けているのは実はこの『バララッシュ』ではなく、同じ作者の『機動旅団八福神』という作品だ。
同作者の最長の連載であり、ブログを立ち上げる前からテーマとして考えて、改めてちゃんと読もうとしていた作品なのだが、またかなりの時間がかかると思う。
 

以上、読んでいただきありがとうございました。

*1:福島聡『バララッシュ』1巻 83頁 株式会社KADOKAWA ハルタコミックス 2018年

*2:福島聡『バララッシュ』3巻 134頁 株式会社KADOKAWA ハルタコミックス 2020年

*3:ただ、この連載の経緯は少し特殊で、作者の前作で短編オムニバスの『ローカルワンダーランド』のうちの1エピソードをベースに、新連載として立ち上がった。元になった話は、単行本1巻にそのまま「第3話」として収録されており、話はシームレスに繋がっている。なので、『ローカルワンダーランド』2巻と『バララッシュ』1巻にそれぞれ同じ32ページの漫画が載っている。

*4:福島聡『バララッシュ』1巻 203頁 株式会社KADOKAWA ハルタコミックス 2018年

*5:福島聡『バララッシュ』3巻 222頁 株式会社KADOKAWA ハルタコミックス 2020年

『ルックバック』を読んだ

3月末にシン・エヴァの感想を書いて、次に福島聡『バララッシュ』の感想を書こうとしていたが放置しており4ヶ月以上が過ぎてしまった。
『バララッシュ』はエヴァQからシンエヴァまでの期間に始まって終わった、庵野秀明に何かを仮託して描かれたような作品なので。
とりあえず直近の状況としては、『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』がとてつもなく面白かったことを記しておきます。

藤本タツキ『ルックバック』の扱いについて

7月のネット界隈をひとしきり騒がせた話題作なので、作品説明は不要とする。
言いたいことはいくつもあるが、多層的な構造になるので一つずつ段階を踏んで話していきたい。

まず漫画単体として、傑作であることは間違いない。
2021年7月時点での藤本タツキは、ジャンプという最メジャー誌で人気を博しながらも、マニア層も納得させるような作風を持った、当代最強の漫画家と言ってもいい立場の作家だ。*1140ページ以上の作品を一気に作り上げる構成力、筋運びの的確さ、頭から尻尾まで神経の通ったようなレイアウト。今回のこの作品は、そのことを証明しているような圧倒的な表現力を持っている。

ネットで度々論点となっている、これが京都アニメーション放火事件を受けて書かれたものかどうか、という点。
作品を読んで受けた印象としては、京アニの事件が動機となって書かれていることは間違いないように思うが、一部で言われているような、半自伝的な内容も踏まえた直接的な哀悼の意図というよりは、より抽象化されたものとして、作品の下地になっているようなものだと思う。
ただ、発表された日時や、編集者の紹介の仕方、それからネット上の諸々の伝言ゲームのようなものが作用して、メッセージが生々しさを持ってしまい大仰に拡散し、多数の感想が飛び交う作品になってしまった。これがこの作品の幸運でもあり不幸でもあったと思う。

事件の総括的な役割としてこの作品が持ち上げられてしまったがゆえに、事件に対して思い入れが強くある人には、この漫画をもって全てを総括されたくはないという思いもあっただろう。
ただ、一つの作品によって世の中の空気を規定してしまう、ということは、力のある作家の特権というか、時代の波も含めての圧倒的なパワーがあるがゆえのどうしようもない性質のものであると私は思っている。
それは創作の世界の弱肉強食と言うよりは、もっとスケールが大きな、鯨がプランクトンを飲み込むようなものだ。
力のある作家はそうやって、あらゆるものを背負いながらただひたすら前に進んでいく。それこそ、作中の藤野のように。
そうあるべきものだと思っていたので、その後に起きた修正の騒ぎには複雑な思いがあるわけだが。

修正前と修正後の話

修正前の殺人犯が言う、「俺の作品をパクられた」という動機。
これは京アニの事件の犯人の証言と一致するものではあるが、それに限らず、この手合の人間は漫画家なり小説家なりが多く遭遇するものと聞く。
匿名掲示板などのロクでもない界隈ではそんな狂った人の記録などよく貼られる。
だからあの作品は京アニ事件自体を下敷きにはしているけども、作家にとっては普遍的な恐怖へと抽象化しているものだと思っていた。
だからこそ、問題となっていたセリフの修正は必要がないと考えたわけだが、実際には、(明示されていない事情により)セリフは差し替わってしまった。

「理不尽な悲劇」といった形に抽象化されているのだから、犯罪者の人物像が多少変わった所で、作品としての強度にはあまり変化はない。
そのことは確かなのだが、セリフの変化には、かなり不満があった点が2つ。

ひとつは、犯人像のステレオタイプぶりが批判されたはずなのに、別のステレオタイプに差し替わっているだけに感じられた点。「被害妄想電波」から「無敵の人」へ差し替わっただけで、結局の所特定の境遇の人間への偏見を強化するだけだったのではないか。
もう一つは、単純に差し替わったあとのセリフにセンスが感じられず、ただの説明口調になってしまっている、という点。これが当代一と言ってもいい立場の作家が繰り出す言葉か?という陳腐さが感じられた。
思い出したのは、高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』。いま手元に持っている93年刷の講談社文庫版では、終盤に出てくるとある放送禁止用語がそのまま書かれているが、私が最初にこの作品を読んだ時(たしか地元の市立図書館で借りたのだと思う)、その放送禁止用語はやたらと回りくどい言葉で書かれたうえで、巻末の作者のコメントとして修正した旨の記述があり、なんだかずいぶんいやみったらしい話だな、と感じられたものだ。
今回の修正は、その陳腐さゆえににそんないやみったらしさを感じてしまい、それは振り返らずに漫画を描き続ける作品の最後のシーンの味わいを、ずいぶん損なってしまったように感じられた。

例えばセリフを修正するにしても、現在のサイト上で110~112ページに出てくる、犯人の叫ぶセリフ。これらの吹き出しの中を、真っ白にしてしまっただけのほうがまだマシだったのではないか。
犯人のセリフが空白だったとしても、絵とコマ割り、吹き出しの形だけでどういった状況かは十分に伝わるわけだし、京本には何を言っているのか理解できない、という表現になるのだから。

結局のところ

昔『ブラック・ジャック』なんかを読んで「なんかおかしいな?」と思っていたような部分。
そんなものに2021年の今、リアルタイムに直面するとは思わなかった*2
たとえばこれが描き下ろしで短編集にまとまる作品であれば、ここまで大々的には拡散されず、そのままの姿を保ったまま後年に残っていたのだろう。
ただ『ルックバック』は広まりすぎた作品として、たとえ野暮なものになったとしても、そこを修正する覚悟を引き受けた、と言ってもいいのかもしれない。
「メジャーであるということ」を引き受けた藤本タツキの覚悟。それが今後の作品に結実していけばいいな、という根拠のない希望をもって、本作品への感想を締めたい。

*1:漫研新入生がとりあえず好きな作家として上げるのに安牌な作家とも言える。以前は石黒正数がその位置にいたというのがどうでもいい個人的な肌感覚。

*2:いや、昔クレヨンしんちゃんの単行本で替え歌がクソつまらないものに差し替わっていた記憶はあるが

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』感想

※本記事は表題の映画のネタバレを含みます。

f:id:Digestive:20210314234001j:image

感想をひとことで要約すると

これは「ものごとを伝える」ことの映画であり、「伝えるための”覚悟”と”配慮”」の映画である。

観た直後のこと

 3月11日の夜にこの作品を見終わった後、すごく不思議な気分になった。
公開日に見に行かなかった理由は、そこまで『エヴァンゲリオン』がすべてだという人生を歩んでいなかったことと、『エヴァ』という作品は、見るのに非常に体力と精神力を使うものだと考えて躊躇していたことによるものだ。
過剰な情報、ショッキングでグロテスクな映像、生理を否応なしに刺激する子供の金切り声のような強度の演技。面白いけれどしんどい。新劇場版でも、結局はそんなものが『エヴァ』で、だからこそ『エヴァ』だと思っていた。

だから、この映画を観終わった後、本当に狐につままれたような気分になった。
大量の情報、押し寄せるイベント、作戦に次ぐ作戦の実行、感情のぶつかり合い。間違いなく『エヴァ』である大量の要素が押し寄せてきたのに、終始楽しく、するりと飲み込めてしまったからだ。

こんな感想をツイートした。

 胃もたれ覚悟で、最高に刺激的だが身体に悪いものを食いに行くつもりだったのに、出てきたものはものすごく消化が良かったし、気分も悪くならなかった。
劇中で起こることが、違和感も不快感もなくすんなりと飲み込めて、長い上映時間の間ずっと楽しかった。
「ちゃんと説明される『エヴァ』って、こんなに楽しいものだったんだ!」

爽快だったが、ただ、それだけではない不気味さがあった。
思い出したのは、漫画家・黒田硫黄の映画レビュー漫画、『映画に毛が3本!』*1の、『39 刑法第三十九条』(1999年)のレビューが書かれた回だ。
本が実家で手元にないため正確な引用ができないのだが、「たとえば、とても美味しいうどんとステーキとカツ丼とうな重と…その他もろもろを食べたのに全部食べ切れて胃もたれもしていない、それってブキミでしょ? そんな映画でした」というレビュー。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を観た後の私の状態も、まさにそんな感じだった。
あれだけの壮大な物語であった『エヴァ』を終わらせるということは、大変な情報量が必要なはずなのに、それがすっきり収まってしまった。びっくりするほど真正面から説明し、それを完遂してしまったのだ。

この映画を作った人は何をしたのか

今作の、”説明されっぷり”について、ある種の逃げだと感じた人は多いようだ。ここまで言葉で言えるんなら、そりゃわかりやすい作品になるわな、そんなんは『エヴァ』じゃないと。
いつもならはぐらかされているような登場人物の内面や組織の目的も、作中でしっかりと台詞で出てくるのが本作だ。なにやら複雑な精神医学の用語を引用してくる必要もない。

ただ、ここで目を向けるべきは、何が説明されているか、ということではない。劇中の説明は、なぜここまで”分かりやすい”と感じるのか、という方だ。
設定の出し惜しみをしないだけでは、この分かりやすさと消化の良さは作れない(それならPS2の『新世紀エヴァンゲリオン2』がもっと名作と言われているはずだ)。

パンフレットの序文で、庵野秀明はこのように言っている。*2

そして、映画としての面白さ、即ち脚本や物語が僅かでも面白くなる様に、
作品にとって何がベストなのかを常に模索し続け、時間ギリギリまで自分の持てる全ての感性と技術と経験を費やしました。

結果、完成したのが本作です。

― シン・エヴァンゲリオン劇場版 劇場用パンフレット(2021年1月23日発行)より

 『シン・ゴジラ』の製作時、300ページ以上ある脚本はどうやっても3時間超えになるから削れないかと言われていたものを、先にセリフを仮収録させて1時間半に収まることを実証させたというエピソードなどはよく知られている*3
具体的な技術や作業について語る言葉を私は持っていないが、そんな脚本の練り込みと圧縮に加えて、画面のレイアウト、音声情報と視覚情報の連携、そういったものの作用によって作られたのが、我々の見たあの引っかかりが無い映画だ。これまでの『エヴァ』ならありがちな、ジャンプスケアめいたグロテスクな作画や登場人物の悲痛な絶叫もない。
見る人によってはギャグに見えかねない、あまりに率直な”シンクロ率∞”の表現や、マイナス宇宙で量子ワープを繰り返す碇ゲンドウの姿などは、その思想の分かりやすい表出部分だ。
それがエヴァらしくない部分だと言われれば、そうかもしれない。

でも本当は”分かりやすく”なんかない

ただ、本当にこの映画のことが良くわかったのか? と自分に問い直せば、実はよく分かっていない部分はたくさんある。
入場特典のペーパー(冒頭の写真のもの)には、物語中に出てくる用語が羅列されているが、じゃああれが何なのか説明しろと言われれば、あそこに出てきたアレとは言えるけど、具体的にそれがどういう物かなんてのは、知らないことばかり。みんな大好きな設定考察をする余地もたくさん残っている。

キャラクターの内心というところに着目しても、今回の映画は内面の思いをかなり素直に語っているのだが(特に碇ゲンドウ)、TVシリーズ・旧劇場版のキャラクターだって、明確に言葉にしていないだけで、トラウマも、内心も、観ている側にはわかりやすいくらいにわかる。
実際の所、映画を通して、今回の映画とこれまでの『エヴァ』で、言ってる情報量はそんなに変わらないんじゃないのだろうか。

それでは、今回の映画では一番何が違ったのかと言えば、「登場人物たちの納得感」だ。
どうやったって観ている我々は、登場人物に共感する道からしか物語に寄り添えないのだ。登場人物たちが最終的に納得して何らかの答えを持ってさえいれば、すっきりした気分で映画を観終えることができる。

そして、登場人物たちはなぜ”納得”しているように感じるかと言えば、「伝えるための覚悟と配慮」によるもだと思う。今回の自身の意見や心情を、伝えるべき人に、伝わるような形で表明しているのが今回の映画だ。
旧シリーズでは追い詰められて誰に伝えるという意識もなく発されていた叫びが、今回は直接、誤解なく伝わるように配慮されている。そしてその結果、伝わるべき事が伝わり、すれ違いなく大団円を迎えた。
エヴァなんてものはそもそもがコミュニケーション不全の話だが、物語を終わらせるために必要なのは、何よりもまず自分の意思を分かりやすく相手に伝えることなどだと。
今回の映画から伝わったのはそんな話だ。

これは、「対話による解決」などといった紋切り型の言葉で片付けるような話ではなく、もっと繊細で優しい次元の話だと考えている。

意見を表明するということ

ところで、なんでここまでこの映画の公開が遅れたのか、おそらくその原因の一つとなった出来事は、以下の記事により多くのファンの知るところとなっている。

【庵野監督・特別寄稿】『エヴァ』の名を悪用したガイナックスと報道に強く憤る理由 | 庵野秀明監督・特別寄稿 | ダイヤモンド・オンライン

この記事を見て、まあ遅れても仕方ないなという明確な世論的なものが形成されたと思うのだが、これがまさに、伝えるべき人に、伝わるような形で意見表明することの正しい効果だ。
これをもって『シン』には庵野秀明の私的な経験がそのまま反映されている、などと言う安直な話ではない。すでにこの時に庵野秀明には、真正面から愚直に意見を表明するという意志と思想があって、上の原稿はそれが発露した結果にすぎない、ということだろう。
たとえば『破』で、あまりにも素朴すぎる『翼をください』や『今日の日はさようなら』といった曲を採用したのも、そんな分かりやすくする思想があったからなのではないかと考えているし、結局最後にそれが結晶したのが『シン』にすぎなかったのではないかと思っている。*4

旧劇のしんどい『エヴァ』は、暴力的なまでの絵と演技の奔流でこちらの不安を煽り、その不安を埋めるために何らかの解釈を詰め込まないといけないような映画だった。
その先にある解釈すべきものなど実はなにもないことに薄々気づきながらも、結局誰かが何かで埋め直していた。
そして結局新劇で言っていることというのも、実際にはあまり変わらない。
ここで私が最後に思い至ったことはひとつ。
結局『エヴァ』というのは、”手段”についての作品なのだなということだ。
たったひとつの冴えたやりかた」。
おあとがよろしいようで。

 

作品内の描写で気になったことなど

そんなわけで、ここから下は適当に観ていて思ったことである。

今回の映画で最も特徴的なのは、Aパートと言われる、第3村でのアヤナミレイ(仮称)の農業生活と碇シンジのゆるやかな回復の過程を描いたパートだ。
この第3村の風景は、あまりに美しくあまりに奇妙だ。
震災の仮設住宅と、戦時中の農村(というか、モロに『となりのトトロ』のようなジブリ的な農村)がねじれて融合したような風景。

すこし物語上の設定について突っ込んで考えると、果たしてあの時代、二アサー前からあんな農業生活を送っていた人間がどれほどいたのだろうか? そこかしこに建築重機があるのであれば、田植え機やコンバインといった農機もあっただろうし、ヴィレに用立ててもらうことも可能なのではないか?
そう考えると、過度に牧歌的でアナクロすぎるあの農業風景も、(物語上の要請で)碇シンジアヤナミレイが癒やされるためだけにあるもの、と考えるだけでは物足りない。
あの村の人間たちの精神衛生や、内紛の防止のために、あえてあの形で、旧時代的な農業を残している、というのは考えすぎだろうか? あの第3村の人達も、あえて虚構と知りつつもあのジブリのような暮らしに沿うことで、フィクションの力により救われている人間たちなのではないか? そんな想像をしてしまう。
「どうしてこんなに優しいんだよ!」という碇シンジの叫びも、あれは碇シンジだけに優しいのではなく、そうではないと生きていけない環境、そんな環境を作るしかなかった様々な人々の営みの跡であると、そう想像できる糸口なのではないかと思うのだ。

また、私がこれを観た日が3月11日だったからというのもあるのだろうが、アナザー・インパクトの描写にて、明確に津波を想起させるシーンがあったのは驚いた。
第3村の仮設住宅の描写も合わせて、これは意図的にやっているのだろうし、ただその映像を過度に取り上げることもなく、ただ描かずにはいられない。その辺りの使命感、バランス感覚、あるいは良心といったものは、いろいろ想像の余地があって興味深い。

正直シーン的にはエヴァがまっとうに戦っている所が一番見どころがない気がする。
庵野秀明、実はロボットアニメがそんなに好きじゃないのかもしれない。というより、それ以上にヤマトとウルトラマンの方が好きすぎるといった方が正しいのか。

ロボットが動いているときと比べて、基地やプラントと言ったような巨大な構造物、建築物が動いている所はなんか妙に楽しい。ああいった超大掛かりな機械仕掛けが一番作品上でフェティシズムを感じた。最後に宇部興産のプラントが映るところもあり、やっぱり人型ロボットより巨大構造物の方が好きなんじゃないだろうか。

初号機対13号機の虚構の世界でのバトル、特撮セット風な道の広さなんかは現役でニチアサを見ている身なのですぐに気づいたのだが、あのいろんな背景の中で何度もぶつかり稽古的に仕切り直しているのは何か元ネタがあるのか?

碇ゲンドウの独白シーン、内向的そうな眼鏡の男がラフな絵でアニメになってるのを見て真っ先にNUMBER GIRL『透明少女』のPVを連想してしまった。

最後、碇シンジを救い出すという超重要な役目を負わされていた事が明らかになった真希波マリだが、過去からの因縁はあるにせよ、映画本編の中ではそこまでシンジに対して人間的な執着はなかったのではないかと個人的には考えている。
これは完全に趣味嗜好の問題で、私はあんまり深い関係性のない人間のために命をかけるような話が好きだからである。

エヴァンゲリオン』の話はこれでまた完結を迎えたが、商売上の要請、クリエイターの野心、ファンの純粋な期待、複雑だった権利関係の明確化、その他もろもろの作用によって、そのうちガンダムシリーズのように、その後の世界の話が作られる可能性は十分にある(おそらく庵野秀明以外の手によって)。
エヴァンゲリオン』の世界の根底には碇ユイがいたが、その因縁は今回の結末で断たれて、新たにあの世界の根底にいるのは、おそらく葛城ミサトだ。*5
もしあの後の話を誰かが作るとすれば、まず加持リョウジに目をつけて、聖母となった葛城ミサトを巡る話になるのかもしれない。

映画は3月11日に見たのだが、ずいぶん久しぶりに腰を据えたブログを書いたので記事になるまでかなり時間がかかってしまった。プロフェッショナル仕事の流儀なども見ているけど、そんなものまで付け加えていくとキリがないのでここまで。

読んでいただきありがとうございました。

*1:https://www.amazon.co.jp/dp/4063645274

*2:なお、パンフレットにおいて庵野秀明が語っている箇所はここしかない。

*3:ググってすぐ出てくるのはこの辺など https://japan.cnet.com/article/35088333/

*4:ただ、このメッセージ性を意図して『Q』はあそこまで話が通じない構成にしたのか、ということについては、公開までの年数が空きすぎていてなんとも言えない。

*5:ラストの宇部新川駅がどのような立ち位置の世界かはいくらでも解釈のしようがあるが、ヴィレメンバー及びアスカ等が脱出しているポッドがあるということ、やったことの責任をとって落とし前をつけるという主旨からして、あの世界は本編の後の、L結界が排除されて冒頭のパリのように元の姿に戻り、また補完された人々も戻ってきた、映画本編から地続きの世界であると解釈している。

ブログをはじめるにあたって

このブログは、『鶏肋ダイジェスティブ』という名前だ。
人生のささいな未消化物をどうにかこうにか消化しようという趣旨である。
わかりにくい言い方をしてしまったが、単にアニメや漫画や小説についての話が多いブログになる予定だ。
このブログは、「忘れるため」のブログである。

人生に不良債権となった作品が多すぎる。
ファイブスター物語』も『ヒストリエ』も『ベルセルク』も『HUNTER×HUNTER』も『強殖装甲ガイバー』も『BASTARD!!』も、たぶん自分か作者のどちらかが死ぬまで終わらないままだろう。
すでに完結した作品についても、結局物語上のエンドマークを見たというだけで、どこかで脳の片隅に引っかかり続けていて、何かの節にあれはどういうことだったんだろうと顔を出す。
それはそれで素敵な体験なのかもしれないが、本棚と同じように自分の意識の容量にも限界がある。いっそすっぱりそういった物を忘れてしまうというのも、生来の貧乏性によりためらわれる。本を捨てられないのと同じだ。

結局のところ忘れられない、捨てられないのは、その作品について十分に消化しきっていないからだ。
そんなふうに思ったので、満足するまで作品を語りきってしまうためにこのブログを開設することを考えた。

そこから面倒臭くてだらだらと時間を引き伸ばしていたのだが、つい先日、とある似たような人生の不良債権作品がすっきりと消化する奇跡的な終わり方をしたので、やっと重い腰を上げることができた。
そんなわけで、最初の記事は『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』についての感想となる。
縁あってたまたまこのブログを見た人は、どうぞお付き合いください。

なお、作品感想だけではなく、プラモデルや料理などの話題についても書いていくつもりです。
*1

*1:そして『鶏肋ダイジェスティブ』という二字熟語+英単語のネーミングは、当然のごとくかつての椎名林檎を意識したものである。