鶏肋ダイジェスティブ

人生の心残りを消化して忘れるためのブログ

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』感想

※本記事は表題の映画のネタバレを含みます。

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感想をひとことで要約すると

これは「ものごとを伝える」ことの映画であり、「伝えるための”覚悟”と”配慮”」の映画である。

観た直後のこと

 3月11日の夜にこの作品を見終わった後、すごく不思議な気分になった。
公開日に見に行かなかった理由は、そこまで『エヴァンゲリオン』がすべてだという人生を歩んでいなかったことと、『エヴァ』という作品は、見るのに非常に体力と精神力を使うものだと考えて躊躇していたことによるものだ。
過剰な情報、ショッキングでグロテスクな映像、生理を否応なしに刺激する子供の金切り声のような強度の演技。面白いけれどしんどい。新劇場版でも、結局はそんなものが『エヴァ』で、だからこそ『エヴァ』だと思っていた。

だから、この映画を観終わった後、本当に狐につままれたような気分になった。
大量の情報、押し寄せるイベント、作戦に次ぐ作戦の実行、感情のぶつかり合い。間違いなく『エヴァ』である大量の要素が押し寄せてきたのに、終始楽しく、するりと飲み込めてしまったからだ。

こんな感想をツイートした。

 胃もたれ覚悟で、最高に刺激的だが身体に悪いものを食いに行くつもりだったのに、出てきたものはものすごく消化が良かったし、気分も悪くならなかった。
劇中で起こることが、違和感も不快感もなくすんなりと飲み込めて、長い上映時間の間ずっと楽しかった。
「ちゃんと説明される『エヴァ』って、こんなに楽しいものだったんだ!」

爽快だったが、ただ、それだけではない不気味さがあった。
思い出したのは、漫画家・黒田硫黄の映画レビュー漫画、『映画に毛が3本!』*1の、『39 刑法第三十九条』(1999年)のレビューが書かれた回だ。
本が実家で手元にないため正確な引用ができないのだが、「たとえば、とても美味しいうどんとステーキとカツ丼とうな重と…その他もろもろを食べたのに全部食べ切れて胃もたれもしていない、それってブキミでしょ? そんな映画でした」というレビュー。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を観た後の私の状態も、まさにそんな感じだった。
あれだけの壮大な物語であった『エヴァ』を終わらせるということは、大変な情報量が必要なはずなのに、それがすっきり収まってしまった。びっくりするほど真正面から説明し、それを完遂してしまったのだ。

この映画を作った人は何をしたのか

今作の、”説明されっぷり”について、ある種の逃げだと感じた人は多いようだ。ここまで言葉で言えるんなら、そりゃわかりやすい作品になるわな、そんなんは『エヴァ』じゃないと。
いつもならはぐらかされているような登場人物の内面や組織の目的も、作中でしっかりと台詞で出てくるのが本作だ。なにやら複雑な精神医学の用語を引用してくる必要もない。

ただ、ここで目を向けるべきは、何が説明されているか、ということではない。劇中の説明は、なぜここまで”分かりやすい”と感じるのか、という方だ。
設定の出し惜しみをしないだけでは、この分かりやすさと消化の良さは作れない(それならPS2の『新世紀エヴァンゲリオン2』がもっと名作と言われているはずだ)。

パンフレットの序文で、庵野秀明はこのように言っている。*2

そして、映画としての面白さ、即ち脚本や物語が僅かでも面白くなる様に、
作品にとって何がベストなのかを常に模索し続け、時間ギリギリまで自分の持てる全ての感性と技術と経験を費やしました。

結果、完成したのが本作です。

― シン・エヴァンゲリオン劇場版 劇場用パンフレット(2021年1月23日発行)より

 『シン・ゴジラ』の製作時、300ページ以上ある脚本はどうやっても3時間超えになるから削れないかと言われていたものを、先にセリフを仮収録させて1時間半に収まることを実証させたというエピソードなどはよく知られている*3
具体的な技術や作業について語る言葉を私は持っていないが、そんな脚本の練り込みと圧縮に加えて、画面のレイアウト、音声情報と視覚情報の連携、そういったものの作用によって作られたのが、我々の見たあの引っかかりが無い映画だ。これまでの『エヴァ』ならありがちな、ジャンプスケアめいたグロテスクな作画や登場人物の悲痛な絶叫もない。
見る人によってはギャグに見えかねない、あまりに率直な”シンクロ率∞”の表現や、マイナス宇宙で量子ワープを繰り返す碇ゲンドウの姿などは、その思想の分かりやすい表出部分だ。
それがエヴァらしくない部分だと言われれば、そうかもしれない。

でも本当は”分かりやすく”なんかない

ただ、本当にこの映画のことが良くわかったのか? と自分に問い直せば、実はよく分かっていない部分はたくさんある。
入場特典のペーパー(冒頭の写真のもの)には、物語中に出てくる用語が羅列されているが、じゃああれが何なのか説明しろと言われれば、あそこに出てきたアレとは言えるけど、具体的にそれがどういう物かなんてのは、知らないことばかり。みんな大好きな設定考察をする余地もたくさん残っている。

キャラクターの内心というところに着目しても、今回の映画は内面の思いをかなり素直に語っているのだが(特に碇ゲンドウ)、TVシリーズ・旧劇場版のキャラクターだって、明確に言葉にしていないだけで、トラウマも、内心も、観ている側にはわかりやすいくらいにわかる。
実際の所、映画を通して、今回の映画とこれまでの『エヴァ』で、言ってる情報量はそんなに変わらないんじゃないのだろうか。

それでは、今回の映画では一番何が違ったのかと言えば、「登場人物たちの納得感」だ。
どうやったって観ている我々は、登場人物に共感する道からしか物語に寄り添えないのだ。登場人物たちが最終的に納得して何らかの答えを持ってさえいれば、すっきりした気分で映画を観終えることができる。

そして、登場人物たちはなぜ”納得”しているように感じるかと言えば、「伝えるための覚悟と配慮」によるもだと思う。今回の自身の意見や心情を、伝えるべき人に、伝わるような形で表明しているのが今回の映画だ。
旧シリーズでは追い詰められて誰に伝えるという意識もなく発されていた叫びが、今回は直接、誤解なく伝わるように配慮されている。そしてその結果、伝わるべき事が伝わり、すれ違いなく大団円を迎えた。
エヴァなんてものはそもそもがコミュニケーション不全の話だが、物語を終わらせるために必要なのは、何よりもまず自分の意思を分かりやすく相手に伝えることなどだと。
今回の映画から伝わったのはそんな話だ。

これは、「対話による解決」などといった紋切り型の言葉で片付けるような話ではなく、もっと繊細で優しい次元の話だと考えている。

意見を表明するということ

ところで、なんでここまでこの映画の公開が遅れたのか、おそらくその原因の一つとなった出来事は、以下の記事により多くのファンの知るところとなっている。

【庵野監督・特別寄稿】『エヴァ』の名を悪用したガイナックスと報道に強く憤る理由 | 庵野秀明監督・特別寄稿 | ダイヤモンド・オンライン

この記事を見て、まあ遅れても仕方ないなという明確な世論的なものが形成されたと思うのだが、これがまさに、伝えるべき人に、伝わるような形で意見表明することの正しい効果だ。
これをもって『シン』には庵野秀明の私的な経験がそのまま反映されている、などと言う安直な話ではない。すでにこの時に庵野秀明には、真正面から愚直に意見を表明するという意志と思想があって、上の原稿はそれが発露した結果にすぎない、ということだろう。
たとえば『破』で、あまりにも素朴すぎる『翼をください』や『今日の日はさようなら』といった曲を採用したのも、そんな分かりやすくする思想があったからなのではないかと考えているし、結局最後にそれが結晶したのが『シン』にすぎなかったのではないかと思っている。*4

旧劇のしんどい『エヴァ』は、暴力的なまでの絵と演技の奔流でこちらの不安を煽り、その不安を埋めるために何らかの解釈を詰め込まないといけないような映画だった。
その先にある解釈すべきものなど実はなにもないことに薄々気づきながらも、結局誰かが何かで埋め直していた。
そして結局新劇で言っていることというのも、実際にはあまり変わらない。
ここで私が最後に思い至ったことはひとつ。
結局『エヴァ』というのは、”手段”についての作品なのだなということだ。
たったひとつの冴えたやりかた」。
おあとがよろしいようで。

 

作品内の描写で気になったことなど

そんなわけで、ここから下は適当に観ていて思ったことである。

今回の映画で最も特徴的なのは、Aパートと言われる、第3村でのアヤナミレイ(仮称)の農業生活と碇シンジのゆるやかな回復の過程を描いたパートだ。
この第3村の風景は、あまりに美しくあまりに奇妙だ。
震災の仮設住宅と、戦時中の農村(というか、モロに『となりのトトロ』のようなジブリ的な農村)がねじれて融合したような風景。

すこし物語上の設定について突っ込んで考えると、果たしてあの時代、二アサー前からあんな農業生活を送っていた人間がどれほどいたのだろうか? そこかしこに建築重機があるのであれば、田植え機やコンバインといった農機もあっただろうし、ヴィレに用立ててもらうことも可能なのではないか?
そう考えると、過度に牧歌的でアナクロすぎるあの農業風景も、(物語上の要請で)碇シンジアヤナミレイが癒やされるためだけにあるもの、と考えるだけでは物足りない。
あの村の人間たちの精神衛生や、内紛の防止のために、あえてあの形で、旧時代的な農業を残している、というのは考えすぎだろうか? あの第3村の人達も、あえて虚構と知りつつもあのジブリのような暮らしに沿うことで、フィクションの力により救われている人間たちなのではないか? そんな想像をしてしまう。
「どうしてこんなに優しいんだよ!」という碇シンジの叫びも、あれは碇シンジだけに優しいのではなく、そうではないと生きていけない環境、そんな環境を作るしかなかった様々な人々の営みの跡であると、そう想像できる糸口なのではないかと思うのだ。

また、私がこれを観た日が3月11日だったからというのもあるのだろうが、アナザー・インパクトの描写にて、明確に津波を想起させるシーンがあったのは驚いた。
第3村の仮設住宅の描写も合わせて、これは意図的にやっているのだろうし、ただその映像を過度に取り上げることもなく、ただ描かずにはいられない。その辺りの使命感、バランス感覚、あるいは良心といったものは、いろいろ想像の余地があって興味深い。

正直シーン的にはエヴァがまっとうに戦っている所が一番見どころがない気がする。
庵野秀明、実はロボットアニメがそんなに好きじゃないのかもしれない。というより、それ以上にヤマトとウルトラマンの方が好きすぎるといった方が正しいのか。

ロボットが動いているときと比べて、基地やプラントと言ったような巨大な構造物、建築物が動いている所はなんか妙に楽しい。ああいった超大掛かりな機械仕掛けが一番作品上でフェティシズムを感じた。最後に宇部興産のプラントが映るところもあり、やっぱり人型ロボットより巨大構造物の方が好きなんじゃないだろうか。

初号機対13号機の虚構の世界でのバトル、特撮セット風な道の広さなんかは現役でニチアサを見ている身なのですぐに気づいたのだが、あのいろんな背景の中で何度もぶつかり稽古的に仕切り直しているのは何か元ネタがあるのか?

碇ゲンドウの独白シーン、内向的そうな眼鏡の男がラフな絵でアニメになってるのを見て真っ先にNUMBER GIRL『透明少女』のPVを連想してしまった。

最後、碇シンジを救い出すという超重要な役目を負わされていた事が明らかになった真希波マリだが、過去からの因縁はあるにせよ、映画本編の中ではそこまでシンジに対して人間的な執着はなかったのではないかと個人的には考えている。
これは完全に趣味嗜好の問題で、私はあんまり深い関係性のない人間のために命をかけるような話が好きだからである。

エヴァンゲリオン』の話はこれでまた完結を迎えたが、商売上の要請、クリエイターの野心、ファンの純粋な期待、複雑だった権利関係の明確化、その他もろもろの作用によって、そのうちガンダムシリーズのように、その後の世界の話が作られる可能性は十分にある(おそらく庵野秀明以外の手によって)。
エヴァンゲリオン』の世界の根底には碇ユイがいたが、その因縁は今回の結末で断たれて、新たにあの世界の根底にいるのは、おそらく葛城ミサトだ。*5
もしあの後の話を誰かが作るとすれば、まず加持リョウジに目をつけて、聖母となった葛城ミサトを巡る話になるのかもしれない。

映画は3月11日に見たのだが、ずいぶん久しぶりに腰を据えたブログを書いたので記事になるまでかなり時間がかかってしまった。プロフェッショナル仕事の流儀なども見ているけど、そんなものまで付け加えていくとキリがないのでここまで。

読んでいただきありがとうございました。

*1:https://www.amazon.co.jp/dp/4063645274

*2:なお、パンフレットにおいて庵野秀明が語っている箇所はここしかない。

*3:ググってすぐ出てくるのはこの辺など https://japan.cnet.com/article/35088333/

*4:ただ、このメッセージ性を意図して『Q』はあそこまで話が通じない構成にしたのか、ということについては、公開までの年数が空きすぎていてなんとも言えない。

*5:ラストの宇部新川駅がどのような立ち位置の世界かはいくらでも解釈のしようがあるが、ヴィレメンバー及びアスカ等が脱出しているポッドがあるということ、やったことの責任をとって落とし前をつけるという主旨からして、あの世界は本編の後の、L結界が排除されて冒頭のパリのように元の姿に戻り、また補完された人々も戻ってきた、映画本編から地続きの世界であると解釈している。