鶏肋ダイジェスティブ

人生の心残りを消化して忘れるためのブログ

『ルックバック』を読んだ

3月末にシン・エヴァの感想を書いて、次に福島聡『バララッシュ』の感想を書こうとしていたが放置しており4ヶ月以上が過ぎてしまった。
『バララッシュ』はエヴァQからシンエヴァまでの期間に始まって終わった、庵野秀明に何かを仮託して描かれたような作品なので。
とりあえず直近の状況としては、『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』がとてつもなく面白かったことを記しておきます。

藤本タツキ『ルックバック』の扱いについて

7月のネット界隈をひとしきり騒がせた話題作なので、作品説明は不要とする。
言いたいことはいくつもあるが、多層的な構造になるので一つずつ段階を踏んで話していきたい。

まず漫画単体として、傑作であることは間違いない。
2021年7月時点での藤本タツキは、ジャンプという最メジャー誌で人気を博しながらも、マニア層も納得させるような作風を持った、当代最強の漫画家と言ってもいい立場の作家だ。*1140ページ以上の作品を一気に作り上げる構成力、筋運びの的確さ、頭から尻尾まで神経の通ったようなレイアウト。今回のこの作品は、そのことを証明しているような圧倒的な表現力を持っている。

ネットで度々論点となっている、これが京都アニメーション放火事件を受けて書かれたものかどうか、という点。
作品を読んで受けた印象としては、京アニの事件が動機となって書かれていることは間違いないように思うが、一部で言われているような、半自伝的な内容も踏まえた直接的な哀悼の意図というよりは、より抽象化されたものとして、作品の下地になっているようなものだと思う。
ただ、発表された日時や、編集者の紹介の仕方、それからネット上の諸々の伝言ゲームのようなものが作用して、メッセージが生々しさを持ってしまい大仰に拡散し、多数の感想が飛び交う作品になってしまった。これがこの作品の幸運でもあり不幸でもあったと思う。

事件の総括的な役割としてこの作品が持ち上げられてしまったがゆえに、事件に対して思い入れが強くある人には、この漫画をもって全てを総括されたくはないという思いもあっただろう。
ただ、一つの作品によって世の中の空気を規定してしまう、ということは、力のある作家の特権というか、時代の波も含めての圧倒的なパワーがあるがゆえのどうしようもない性質のものであると私は思っている。
それは創作の世界の弱肉強食と言うよりは、もっとスケールが大きな、鯨がプランクトンを飲み込むようなものだ。
力のある作家はそうやって、あらゆるものを背負いながらただひたすら前に進んでいく。それこそ、作中の藤野のように。
そうあるべきものだと思っていたので、その後に起きた修正の騒ぎには複雑な思いがあるわけだが。

修正前と修正後の話

修正前の殺人犯が言う、「俺の作品をパクられた」という動機。
これは京アニの事件の犯人の証言と一致するものではあるが、それに限らず、この手合の人間は漫画家なり小説家なりが多く遭遇するものと聞く。
匿名掲示板などのロクでもない界隈ではそんな狂った人の記録などよく貼られる。
だからあの作品は京アニ事件自体を下敷きにはしているけども、作家にとっては普遍的な恐怖へと抽象化しているものだと思っていた。
だからこそ、問題となっていたセリフの修正は必要がないと考えたわけだが、実際には、(明示されていない事情により)セリフは差し替わってしまった。

「理不尽な悲劇」といった形に抽象化されているのだから、犯罪者の人物像が多少変わった所で、作品としての強度にはあまり変化はない。
そのことは確かなのだが、セリフの変化には、かなり不満があった点が2つ。

ひとつは、犯人像のステレオタイプぶりが批判されたはずなのに、別のステレオタイプに差し替わっているだけに感じられた点。「被害妄想電波」から「無敵の人」へ差し替わっただけで、結局の所特定の境遇の人間への偏見を強化するだけだったのではないか。
もう一つは、単純に差し替わったあとのセリフにセンスが感じられず、ただの説明口調になってしまっている、という点。これが当代一と言ってもいい立場の作家が繰り出す言葉か?という陳腐さが感じられた。
思い出したのは、高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』。いま手元に持っている93年刷の講談社文庫版では、終盤に出てくるとある放送禁止用語がそのまま書かれているが、私が最初にこの作品を読んだ時(たしか地元の市立図書館で借りたのだと思う)、その放送禁止用語はやたらと回りくどい言葉で書かれたうえで、巻末の作者のコメントとして修正した旨の記述があり、なんだかずいぶんいやみったらしい話だな、と感じられたものだ。
今回の修正は、その陳腐さゆえににそんないやみったらしさを感じてしまい、それは振り返らずに漫画を描き続ける作品の最後のシーンの味わいを、ずいぶん損なってしまったように感じられた。

例えばセリフを修正するにしても、現在のサイト上で110~112ページに出てくる、犯人の叫ぶセリフ。これらの吹き出しの中を、真っ白にしてしまっただけのほうがまだマシだったのではないか。
犯人のセリフが空白だったとしても、絵とコマ割り、吹き出しの形だけでどういった状況かは十分に伝わるわけだし、京本には何を言っているのか理解できない、という表現になるのだから。

結局のところ

昔『ブラック・ジャック』なんかを読んで「なんかおかしいな?」と思っていたような部分。
そんなものに2021年の今、リアルタイムに直面するとは思わなかった*2
たとえばこれが描き下ろしで短編集にまとまる作品であれば、ここまで大々的には拡散されず、そのままの姿を保ったまま後年に残っていたのだろう。
ただ『ルックバック』は広まりすぎた作品として、たとえ野暮なものになったとしても、そこを修正する覚悟を引き受けた、と言ってもいいのかもしれない。
「メジャーであるということ」を引き受けた藤本タツキの覚悟。それが今後の作品に結実していけばいいな、という根拠のない希望をもって、本作品への感想を締めたい。

*1:漫研新入生がとりあえず好きな作家として上げるのに安牌な作家とも言える。以前は石黒正数がその位置にいたというのがどうでもいい個人的な肌感覚。

*2:いや、昔クレヨンしんちゃんの単行本で替え歌がクソつまらないものに差し替わっていた記憶はあるが